私が乗る自動車が砂漠でクラッシュしたとします。
道路からはずれた砂漠の真っ只中。他の車もやってきません。
法定速度(そんなものがあったとしてですが)も守り、しらふで、安全運転だったけど突然車が大破してしまった。
運良く私は助かりました。
骨も内臓も無事で、動くことも出来ます。
けれど精神的には大層ショックを受けました。ケータイも壊れ、どこにも連絡はとれません。
クラッシュの原因はわかりません。
整備師の責任でしょうか、自動車を作った自動車会社の責任でしょうか。それとも気づかなかった私のミスでしょうか。もしかしたらテロかもしれません。くわしいことは調査を待たなければわかりません。でも、私のせいではないように思えます。
さて、私は、このクラッシュは自分のせいではないから、誰かが私の面倒を見てくれるべきであると、その場に坐って何もしないでいるでしょうか。
私が砂漠の真ん中で立ち往生していることは、誰も知りません。
飛行機の墜落のように、すぐ救援はやってきません。ヘタに動かないでいることが最良とは言えない状況にあります。
日光は照りつけ、夜は凍える寒さが襲ってきます。
その場にとどまれば、ただ乾き飢え凍えていくばかりです。
誰のせいでこうなったかは、無事町に戻ってから考えることにして、まずはどこかオアシスや連絡可能な人家を探して歩き始めるでしょう。
でも、歩き始めない人がいます。
事故現場まで、奇特にも水と食料と毛布まで運んでくれる人がいたりすると
もうその場から動かない人がいます。
一生誰かのせいにして(「私は無罪」を「免罪符」にして)事故現場で暮らすつもりのようです。
さてこの人は「被害者」でしょうか。
事故が起こった瞬間、その人に罪は無いと言う点で、確かに「被害者」であったかもしれません。
しかし、「今も被害者であり続ける」こととは別の話です。過去に「被害者であった」ことは事実でも、その後「被害者であり続ける」ことは、その人が自分で選んだ道であり、誰かが押し付けたものではありません。
その人が望んで「被害者であること」に「とどまって」いるのです。
人は瞬間瞬間に、次の人生を、自分の歩む道を選んでいます。
一瞬前に何があろうと、その次の一瞬を選ぶのは自分です。
ひどいイジメや犯罪に巻き込まれ「被害者」となるかも知れませんが、次になにをするかは自分の選択です。
以前の記事でも触れましたが、精神の病を大雑把に分けると二つのタイプがあるようです。
なんでもかんでも自分が悪いと自己嫌悪に陥る「神経症」タイプ。時にはそれで自殺さえします。
反対に、なんでもかんでも自分以外の他人が悪いと他人を非難攻撃して被害者モードに陥る「人格障害」タイプ。
永遠の被害者で居続けようというのは、この後者に分類されるでしょう。
疾病利得(しっぺいりとく)という言葉があります。
病気になることで、その患者が得られる利益のことです。
他人から同情される、世話を焼いてもらえる、注目される、仕事や勉強をしないでいい、色々あります。
いわゆる仮病やミュンヒハウゼン症候群ではなく、一種の心身症として、本当に体がそういう症状を作り出すこともあります。
私自身、時々現れる身体の不調の何割かは、そうした心身症の一種であると思っていますし、今こういう不調が現れているのは本当に器質的に何か問題が在るのか、何か眼の前の問題から逃げようとして潜在意識と肉体が作り出している一時的な症状なのか、よく見直してみるようにします。
自分自身の体の声を聞くことはとても大切なことです。
この「疾病利得」と同様に「被害者利得」とでもいうべきものがあって、それを握り締めている人がいます。
周囲の人も迷惑ですが、何よりその本人が、自分の人生を食いつぶしています。
もったいないとは思うのですが、本人が好きで選んだ道である以上、他人は変えることが出来ません。
できるのは本人の変わろうと思う意思だけです。
変わることができないのではなくて、変わりたくない、変わろうと思わないケースが少なくないように思います。
自分の親戚にもそういう人がいましたし、友人や知り合いの方のご家族にも、似たような例があります。
いつか時が満ちて、ご本人も周りの人も、すかっと気持ちのいい一歩が踏み出せるといいなあと願うものです。